論争したいわけではないのでリンクしたりトラックバックを送るのは慎むが、「散歩道」というウェブログの「批判者の正体を知ってどうするの?」という記事に興味を惹かれた(以下、引用は記事の一部に留めたので、全体的な文脈については元記事を参照していただきたい。Googleで「散歩道 exblog」で検索すればヒットする。頻繁に更新されているので該当する記事がトップに表示されないかもしれないが、5月8日付けのものである)。
この記事で筆者は次のように書いている。
ネットは相手の姿が見えない。
見えないから容姿や地位に惑わされる事無く、書かれた文字のみで意思を読む事が出来る、とも言える。
もちろん実際会ってみればより分かりやすく感じる人間も居るし、逆に会うと見た目に騙される場合もあるわけで。
彼らは、実際に批判者に会ってみてどうだったのだろう。
「正体」が分かったのだろうか?
顔を合わせて対話する事が重要視されるのは、それで相手を安心させ信頼を得る事が出来るからだ。
それが商談ならともかく、批判者がターゲットの信頼を得る事を重要視していない以上、匿名性の批判には意味が無い。
最後の部分はやや言葉足らずの感があるが、おそらく文脈的には「匿名性の批判においては、相手の正体を知ることには意味がない」と解釈すべきなのだと思う。
この文章で筆者は、ネット上での匿名のコミュニケーションを肯定的に語っているようなのだが、どうも私には腑に落ちない部分がある。
筆者は「書かれた文字のみで意思を読むことが出来る」と書いているが、これは、容姿や地位や年齢や性別が文字で書かれた言葉の持つ意味合いに影響を及ぼすことはないという前提に拠っている。裏返せば、この筆者の言説も筆者自身の状況(あり方=正体)から独立して客観的に成立しうると考えているのだろうし、また「書かれた文字のみで意思を読む」際に、読む側の状況が影響することはないと考えているのだろう。
むうう。
そのようなコミュニケーションに何か意味があるのだろうか。
たぶん、ほとんどない。
自らと相手がどのような状況に置かれているかを、(内田樹的な表現をすれば)俯瞰的なマップのもとで把握できなければ、まともな論争もコミュニケーションも成立しないんじゃないかな、たぶん。
さらに筆者は、まことに適切に「批判者がターゲットの信頼を得ることを重要視していない以上」と書いている。批判者とその「ターゲット」という言葉づかい自体が、コミュニケーションではなく単なる誹謗中傷や荒らしであることを暗示しているように思えるのだが、それはさておき、まともな「批判」であるためには、少なくとも、批判される側が「この批判者には、きちんとした議論をする能力と意思がある」という信頼を抱かなければならない。そのような信頼を与えるような批判こそが、まともな批判たりうるのだと思う。
何となく、この「散歩道」の記事を読んで、「反日的」なウェブログに寄せられる、批判的な(あるいは彼らが「批判」だと思いこんでいる)コメントの実体がよく分かったような気がする。
あ、そうか。「匿名性の批判には意味が無い」は、上述のように意味を補いつつ読むのではなく、字義通り解釈すればよかったのか。
まぁ翻って考えれば、私も、山辺響という仮名のもとでこれを書いている以上、その点では上記の文章の筆者と五十歩百歩でしかないのだが。