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日教組批判について思うこと

日教組批判の放言を重ねて辞任した中山前国交相はその後も奇行を繰り返しているので、彼の発言も「そのような人が為した発言」として了解されてよいのではないかと思う。

橋下府知事や自民党の重鎮の一部にも日教組批判を支持する発言があるみたいだが、これについて私が言いたいのは一つだけである。

この国に起きている諸般の現象を「これは日教組によるもの」「これは文部省によるもの」と恣意的に切り分けることは許されまい、ということだ。

戦後日本の学校教育(初等・中等教育)をきわめておおざっぱに捉えるならば、それは文部省(文科省)的なるもの(=与党・政府・官僚系=学習指導要領などなど)と日教組的なるもののせめぎ合いのなかで進められてきたといっても、それほど大きく間違ってはいないだろう。そのうち、どちらが優位な影響を子ども(もちろん現時点での大人を含む)に及ぼしていたかは、私には分からない。文部省的なるものが優位を占めていた局面(地域・時期)もあろうし、日教組的なるものが優位を占めていた局面もあるだろう。

双方の影響が入り交じっている以上、そのなかで育てられた「日本国民」が生み出してきた/生み出している現象を、どちらの影響によるものかを単純に切り分けることはできない。

仮に、日教組の影響が常に優位にあったとすれば、親殺し・子殺しは日教組のせいと言えるかもしれないが、同時に、自民党が長期にわたって政権を維持し、中山や橋下が大臣や知事の座につくことにできたのも日教組のおかげである。

もちろん上の一文の日教組を「文部省」に入れ替えてもいい。

いずれかの影響が常に絶対的に優位になかったとするなら、各々の現象をいずれか一方の影響に帰するには恣意的な操作が必要だ。中山や橋下が、「自分たちが当選できたのは日教組の影響をあまり受けなかった良識ある有権者のおかげであり、日本の社会にさまざまな問題が生じているのは、日教組の影響を受けた質の悪い国民がいるからだ」と発言するならば、その発言そのものが日教組による間違った教育の所産である。あるいは文部省による教育の所産である。どちらでもいいが。

個人的には、中山や橋下の発言を見る限り、彼らが大臣や知事といった職を得ることができたのは、日教組が道徳教育を一生懸命妨害したからだと思えてならない。これもまた一つの恣意的な解釈だろうけど。

ところで、私が今書きたいのは、以上のような常識的なことではなく、日教組系の教員についての個人的な思い出である。

私が小学5・6年のときの担任は、確かに日教組の熱心な組合員であったように思う。選挙になると私の親のところにも日本共産党の候補者への投票を依頼する電話があったくらいだから、けっこう真面目な活動家だったのだろう(ただしそのような電話をしてくるようになったのは私の卒業後ではあったし、すべての生徒の家に電話していたかどうかは分からないが)。

その担任の学級運営で今でも覚えているのは、「班長のリコール制」である。

クラスは、6名ほどを単位とする「班」に分かれていた(「細胞」とは呼ばれていなかった)。最初に「班長」をどのように決めていたかは覚えていないのだが、現職の班長(他班の班長も含む)を学級会の場で「リコール」することができたのだ。

もちろん趣旨としては、現実の自治体首長などに関して設けられている解職請求権のシミュレーションだったのだろう。

でも、僕らは子どもである(笑) このようなシステムが理性的に運営されるはずもない。遊びや学校生活の場における個人的な私怨に基づく「リコール」は珍しくなかった。リコールされた側(前班長)は、涙を浮かべ、逆ギレして(当時はそんな言葉はなかったが)他の班長に対するリコール動議を連発し、学級会の場は泥仕合と化す(笑) 後の私であれば「総括」などという言葉も思い浮かべたかもしれない。

担任は、自分が教えた「民主的制度」が意図したように機能しないのを目の当たりにして困惑していたと思う。

けれども、あの場面は「民主的な制度も暴走することがある」ということをリアルに教えてくれた。それは(残念ながら)担任の意図とは異なっていたかもしれないけれど、それはそれで、有益な教育だったように思う。

小学校を卒業して8年ほど経ってから、この(かつての)担任からの電話を受けたことがある。もちろん私はすでに選挙権を得ていたし、国政レベルの選挙が近づいていた時期だったと思う。用件は明らかだったのだが、それなりに政治意識(笑)の高まっていた私の方から誘って、近所の焼鳥屋で2人で飲むことになった。担任曰く、「僕も学生のときは民青が大嫌いだったなぁ」と。なかなか面白い一席になり、また飲もうという話になったのだけど、残念ながらその機会は訪れていない。

懐かしいなぁ、N先生。

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コメント (2)

日教組出身の現役教頭:

山辺響さんの大局的な視点での論評は大変参考になります。白黒をつけるだけが真理ではなく、「中庸」という真理があるということを改めて考えさせられます。ありがとうございます。(他の投稿も読ませてもらっての全体的な感想です。)話は変わりますが、少年による殺人事件は50年前に比べ1/3に減っています。少年犯罪の総数も昭和30年頃からほぼ横ばい。犯罪数だけでみると今の子も、昔の子も変わらないということです。http://kangaeru.s59.xrea.com/toukei.html さまざまな情報が一瞬のうちに日本全国に伝わる現代。子供たちに関する悪い情報だけではなく良い情報もたくさん発信してもらいたいものです。

山辺響:

→日教組出身の現役教頭さま、
暖かいコメントをありがとうございます。おっしゃるほどのブログではありませんが(汗)

少年犯罪の件数については、少子化の昨今、実数よりも人口比を見ないと意味がないとは思いますが、ご紹介のサイトで人口比の数字を見ても、減っているかどうかはともかく、少なくとも増えているという印象はないですね。悪いニュースばかりで印象づけられないようにしないといけないと思います。

今、『街場の教育論』(内田樹)を読んでいます。教育がいかに素晴らしいものであるか(ありうるか)、そしてそれが今どれほどひどく損なわれているか、という両面で感銘を受ける本です。

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2008年10月27日 17:25に投稿されたエントリーのページです。

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