沖縄で、また米兵による事件が起きた。
もうこれはね、絶対と言ってもいいくらい、「米軍許せん!」という論調に反発するように、「ついていく方が悪い」という論理が出てくると思う。去年10月の岩国での事件では藤田雄山・広島県知事が「朝の3時ごろまで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思うんでありますけれども」と言っているし、石原とか橋下とかも、いかにも言いそう(←憶測と偏見による決めつけです)。
……と、ここまで書いて放置しておいたら、「かめ!」の記事(→URL)で、さっそくその手の主張を展開する産経新聞(やっぱり?・笑)の記事が紹介されていた。
ええ、そのとおりでございます。「知らない人についていかない」を子供に徹底しておくべき、というのは(産経が言っているからというわけではないが)正論だと思う。いや、正論であるかどうかはともかく、少なくとも、私はそのように親から教育された。
ところで、この事件に関連して「dr.stoneflyの戯れ言」の記事「『少女は100%被害者である』…と、やはり断言したい」(→URL)においてdr.stonefly氏は、このように子供に教えなければならない社会を「哀しい」と表現している。
こうした問いを発する気持ちは分かる。「生き難くない」「あるべき社会」をめざすという方向性で、その道程の途中までは、私もついていけるのではないかと思う。
けれども、その方向を突き詰めていったら、究極的には、どこか私としては受入れがたい、気持ちの悪い状況になるように思えてならない。
「知らない人についていってはいけないよ」と教えずに済む社会というのは、「人を疑う」必要のない社会、つまり、犯罪のない社会を意味するように思う。
うん、悪くない。悪くないんだけど……そこにたとえようのない気味悪さを感じてしまうのは私だけだろうか。それは、現実的/潜在的のいずれにせよ「犯罪者」が根絶された社会、なのではないだろうか。
いや、その「犯罪者の根絶」に、ファシズム的な超管理社会のようなものをイメージして、気味悪いと言っているわけではない。ま、そういう含みもないわけではないが、それだけではない。
「知らない人についていってはいけない」でもいい、あるいは「世の中いい人ばかりじゃないんだよ」でもいい、そういう教えの裏には、意識しているか否かはともかく、「自分も何かの拍子に犯罪者になるかもしれない」という恐怖が潜んでいるような気がする。人によってはそれを性悪説と呼ぶのかもしれないけれども、人間という存在に対する「分からなさ」、自分も含めて、いつダークサイドに滑り落ちるか分からない不安。
そういう不安があればこそ、律する意識、さらに言えば倫理的な意識が生まれてくるのではないか、と。
いやもちろん、繰り返すようだが、「生き難さ」を解消していく、人を疑わなくて済むような社会にしていくという道程の「途中までは」私もついていけるとは思うのだけど、それでも、「知らない人についていってはいけない」という言葉で表現されるような、「理解できないけれども邪悪なもの」(それは自分かもしれない)に対する恐怖感というものを持ち続けていたほうが、結果的に人間は倫理的な存在になりうるのではないか、という気がする。
ええ、なんだかおかしな方向に話が行ってしまった。
なにやら私が、花岡@産経の主張を支持しているように読めてしまうかもしれないが、それは断じて違う。
というのは、ここまではあくまでも一般論というか「前振り」にすぎないからだ。
いや、長すぎるね。
続きは別稿で。
沖縄署の調べによると女子生徒は、午後8時半ごろ沖縄市上地のミュージックタウン音市場前で、大型バイクの男に誘われて後部座席に乗り、その後、車に乗り換えたという。(琉球新報の記事より)
もうこれはね、絶対と言ってもいいくらい、「米軍許せん!」という論調に反発するように、「ついていく方が悪い」という論理が出てくると思う。去年10月の岩国での事件では藤田雄山・広島県知事が「朝の3時ごろまで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思うんでありますけれども」と言っているし、石原とか橋下とかも、いかにも言いそう(←憶測と偏見による決めつけです)。
……と、ここまで書いて放置しておいたら、「かめ!」の記事(→URL)で、さっそくその手の主張を展開する産経新聞(やっぱり?・笑)の記事が紹介されていた。
「知らない人についていってはダメ」。筆者などの世代は子どものころ、親から口うるさく言われたものだ。
米軍基地が集結する沖縄である。夜の繁華街で米兵から声をかけられ、バイクに乗ってしまう無防備さ。この基本的な「しつけ」が徹底していなかったことは無念、という以外にない。(客員編集委員 花岡信昭)
ええ、そのとおりでございます。「知らない人についていかない」を子供に徹底しておくべき、というのは(産経が言っているからというわけではないが)正論だと思う。いや、正論であるかどうかはともかく、少なくとも、私はそのように親から教育された。
ところで、この事件に関連して「dr.stoneflyの戯れ言」の記事「『少女は100%被害者である』…と、やはり断言したい」(→URL)においてdr.stonefly氏は、このように子供に教えなければならない社会を「哀しい」と表現している。
なぜ、人を疑う、ということが前提条件になっているのだ。または人を疑って当然という感性を疑わずに受け入れているのか?
こうした感覚のワタシは、根本的な「生き難さ」を当然のものとして受け入れてしまっているのではないか。当然として受け入れてしまっている感覚だから疑おうとしないのではないか。
こうした問いを発する気持ちは分かる。「生き難くない」「あるべき社会」をめざすという方向性で、その道程の途中までは、私もついていけるのではないかと思う。
けれども、その方向を突き詰めていったら、究極的には、どこか私としては受入れがたい、気持ちの悪い状況になるように思えてならない。
「知らない人についていってはいけないよ」と教えずに済む社会というのは、「人を疑う」必要のない社会、つまり、犯罪のない社会を意味するように思う。
うん、悪くない。悪くないんだけど……そこにたとえようのない気味悪さを感じてしまうのは私だけだろうか。それは、現実的/潜在的のいずれにせよ「犯罪者」が根絶された社会、なのではないだろうか。
いや、その「犯罪者の根絶」に、ファシズム的な超管理社会のようなものをイメージして、気味悪いと言っているわけではない。ま、そういう含みもないわけではないが、それだけではない。
「知らない人についていってはいけない」でもいい、あるいは「世の中いい人ばかりじゃないんだよ」でもいい、そういう教えの裏には、意識しているか否かはともかく、「自分も何かの拍子に犯罪者になるかもしれない」という恐怖が潜んでいるような気がする。人によってはそれを性悪説と呼ぶのかもしれないけれども、人間という存在に対する「分からなさ」、自分も含めて、いつダークサイドに滑り落ちるか分からない不安。
そういう不安があればこそ、律する意識、さらに言えば倫理的な意識が生まれてくるのではないか、と。
いやもちろん、繰り返すようだが、「生き難さ」を解消していく、人を疑わなくて済むような社会にしていくという道程の「途中までは」私もついていけるとは思うのだけど、それでも、「知らない人についていってはいけない」という言葉で表現されるような、「理解できないけれども邪悪なもの」(それは自分かもしれない)に対する恐怖感というものを持ち続けていたほうが、結果的に人間は倫理的な存在になりうるのではないか、という気がする。
ええ、なんだかおかしな方向に話が行ってしまった。
なにやら私が、花岡@産経の主張を支持しているように読めてしまうかもしれないが、それは断じて違う。
というのは、ここまではあくまでも一般論というか「前振り」にすぎないからだ。
いや、長すぎるね。
続きは別稿で。
コメント (1)
何時もご無沙汰です。
mixiのニュース日記などで見ると、90%、女の子のしつけが悪いという意見が占めています。
確かにそれも正論ですね。女子中学生が誘われるままに、ほいほい外人のバイクに跨って行く…。
沖縄人として恥ずかしい気がします。
でもね、この事件を起こしたのは、外国から来た一般人ではないということです。戦後ずっと沖縄に居座り、沖縄人を殺し、強姦してきた米軍の兵隊が起こした凶悪事件だということですね。
この被害者少女のしつけが悪いということは、沖縄人自身の内部問題であって、米兵糾弾の問題とは別の次元のことです。
投稿者: キー坊 | 2008年02月20日 19:40
日時: 2008年02月20日 19:40