オウム・麻原判決について、知人がウェブ日記にこんなことを書いていた。
これについて小泉首相が
「あれだけの大犯罪ですからね。死刑は当然ですね。もっと早く裁判が終わっていればいいんですけどね」
と発言したのは間違っているし、危険である。
これは確定判決ではない。まだ裁判は一審である。
三権分立の原則から見て、現役の首相が「死刑は当然」などと言ってはいけない。
しごく真っ当な見解であるし、危険だという懸念ももっともだと思う。たとえ無難な優等生的発言と言われようと、「首相」は、「個人的な見解はいろいろありますが、司法が判断すべきことですし、まだ一審判決ですので……」などと言葉を濁すべきなのだ。
で、まったく同じというわけではないが、関連してこんなことを思い出した。
米国であの大規模なテロが起きたのは、言うまでもなく2001年9月11日である。オサマ・ビンラディン率いるアルカイーダが事件の背後にあるとの推定により、米国は彼らをかくまっているとされるアフガニスタンを攻撃し、タリバン政権を倒した。攻撃開始はいつだったか。10月7日だ。優秀なる米国の捜査機関・司法組織は、こんな短時間のあいだに、誰が犯人であり誰が教唆したかを突き止め、判決を確定したのか。もちろんそうではない。FBIが実行犯たちを起訴したのは実に12月11日なのだ。その後の裁判の経緯だの判決だのについては、残念ながら私は知らない。少なくとも確実なのは、米国の公式の法執行機関が犯人を起訴するよりもはるかに先に、行政の最高責任者=大統領が、誰が犯人であり誰が黒幕であるかを断定し、彼のいう「正義」を執行したということだ。
なるほど、ブッシュと小泉は発想が酷似している。
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ちなみに一連のオウムによる(とされる)事件について思うこと。
特に地下鉄サリン事件については、私自身も地下鉄を使って通勤しており、特に丸の内線で中野方面から出勤していた社内関係者が事件をまのあたりにしていることもあり、「もしかしたら自分だったかもしれない」という恐怖を味わった。もちろん、「自分が被害者だったかもしれない」という意味で。
が、村上春樹『約束された場所で―underground 2』を読んで、「なぜ自分ではなかったのか」という思いを抱いた。今度は逆に「自分がオウム信者にならずに済んだのは、どうしてなのか」という意味だ。
実際、私が在籍していた大学では、まだ危険視されていなかった頃の麻原彰晃が学園祭で講演に招かれたり、自主ゼミの講師として呼ばれたこともあったように記憶している(ニューアカデミズムとかオルタナティブとか、まぁ中沢新一あたりと近い位置付けだったように思う)。たまたま私は関心を抱かなかったのだが(というより、そのへんの新しげなものを追いかけるほど勉強熱心ではなかったのだ)、オウムに出会い惹かれる可能性もなかったわけではない。
なぜ自分ではなかったのか。
結局、『約束された場所で』を読んだ後の結論は、「人から正解を与えられることでは満足しなかっただろう」ということだった。まぁ、これには「自分で正解を見つけた気になる」という逆のリスクも伴っているのだろうけど……。