遅ればせながら、『ラスト・サムライ』を観る。
私の周囲ではわりと好意的な評価をする人が多くて、否定的な評価は一つしか目にしていなかったので、それなりに期待は高かった。
時代考証がむちゃくちゃだよという話は聞いていたのだが、かなり早い段階で、どうも時代考証以前に日本のあり方に対する敬意が微塵もないように思えてきた。「フジヤマが出てくれば、ま、ニッポンってことで」程度の投げやりな(ある意味で分かりやすい)姿勢である(もちろんCGによる合成だろうが、横浜港?から見える巨大な富士山は何?)
そのへんを気にしているとキリがないから、「日本を思わせるどこか架空の国」でのファンタジーとして捉えることにする。では、その内部での整合性はどうだろう?
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いや、それにしてもツッコミどころが多すぎるぞ。「サムライ」のリーダーであるカツモトを暗殺しにくるニンジャたちは何?(笑) すでに鉄道を襲い官軍と衝突したカツモトらが、「お上から呼ばれた」と言ってなにごともなく武装したまま上京できるのはなぜ? 元老院に参内したカツモトが刀を差し出そうとするのはいいが、差し出した刀とは別にそのまま二本差しているのはなぜ? 刀を否定する側が、主人公を暗殺しようとするのになぜ刀を使う?
カツモトの最期のシーンで桜が散るというのも、あまりにもステレオタイプな演出だし、「ブシドウ」を心得ないはずの官軍が土下座するのもギャグとしか思えない。
主人公はネイティブ・アメリカン虐殺に加わったことによるトラウマに囚われていたようだけど、それって、今度は「狩られる側」に与して「狩る側」の兵士をたくさん殺せば名誉回復されて心の平安を得られるものなの? 多数の官軍兵士を殺したことが新たなトラウマにはならないの?
名前を聞くくらいには現地語(映画ではいちおう「日本語」が用いられている)を覚えたはずの主人公だが、村で主人公の見張りを務める年配のサムライは、最後まで「ボブ」のままなのだね……。
最後の宮廷のシーンに、なぜかのうのうと登場する主人公(あれだけ多くの官軍兵士を殺した反逆者なのに、最高権力者のもとに武器を携えて入ってこられる不思議……)。カツモトの刀を捧げに来るという趣旨はともかく、服装が官軍側の軍事顧問の制服に見える。まだ軍事顧問の任から解かれていないのか? ひょっとして彼が捕虜になったというのは偽装で、カツモト側に潜入して内部工作をする任務に就いていたのに、カツモトらに感情移入してしまったのではないかとさえ思えてくる(というのはトム・クルーズ=工作員という過去のイメージの影響かも(笑))
「日本」という要素を除外しても、不可解な点が多く内部で破綻している。というか、造りがいいかげんすぎる。
そこで語られる「ブシドウ」(日本ではないのだから武士道とも違うのだろう)という価値観も、よく分からんのだよね。「生きて虜囚の辱めを受けず」とか「名誉ある敗北・自刃」程度のものしか伝わってこない。カスター将軍@第七騎兵隊だの、ペルシャの大軍に少数で挑むギリシャ軍への共感は語られるけど、「負けるのが分かっていても主義に殉じて華々しく散る」美学(なのか?)くらいしか感じられない。
荒唐無稽なオリエンタリズム映画、というのが私の結論。
ちなみに先に私が読んだ否定的な批評というのは星川淳氏によるものだが、ここまで真剣に批判すべき対象なのかとさえ思えたほどだった。