2008年04月24日

ある死刑判決

やたらに有名になってしまった、ある殺人事件の判決が出た。

私はほとんどテレビを観ない人間なので、ワイドショー的な視点にはほぼまったく影響されていない、と思う。週刊誌も読まないしね。遺族の主張とか、弁護団がどんな人たちかとか、そんなことがテレビ・週刊誌では取り沙汰されているらしいが、そういうのはよく知らない。

そのうえで。

今回の判決要旨を読んだけど、まぁ首を傾げたくなる点はあれこれあるにせよ、ともかく私の感想は一つ、「人を殺しちゃいかんのではないか」ということだ。

あ、言うまでもないけど、主語は「国家が」です。

2008年02月22日

良き隣人(ただし野獣もおります)

前稿「知らない人に……」の末尾で「続きは別稿で」と書いたまま、他のことにかまけて放置しておいたら、催促のように(笑)、キー坊さんからコメントをいただいてしまった。

でもね、この事件を起こしたのは、外国から来た一般人ではないということです。戦後ずっと沖縄に居座り、沖縄人を殺し、強姦してきた米軍の兵隊が起こした凶
悪事件だということですね。

この被害者少女のしつけが悪いということは、沖縄人自身の内部問題であって、米兵糾弾の問題とは別の次元のことです。


私が書きたかったことは、キー坊さんのこのコメントですべて言い尽くされている。

おしまい。

……ではあまりに芸がない。

ついでにといっちゃ何だが、もう一つ紹介しておこう。「モジモジ君の日記。みたいな。」というブログの「米兵の事件だから大きく報道するに決まってるだろ、このバカ」という記事(→URLで、mojimojiさんが次のように書いておられる。

被害少女の「落ち度」なるものを語る言説は、留保抜きに、一つ残らずアホ。(中略)善悪の話と、処世術における巧拙の話を、ごっちゃにするな。バカどもが。


善悪の話と、処世術における巧拙の話を、ごっちゃにするな。

かっこよすぎます。啖呵というのはこうやって切るものだな。

もちろん前稿での私の立場は、言ってみれば「一見、処世術のように見えても、その教えの根底には倫理がある」とでもまとめられるのだけど、それは一般論を突き詰めたうえでの話である。現実問題としては、「善悪の話と、処世術における巧拙の話を、ごっちゃにするな。」でいいのだ。キー坊さんのコメントの最後の部分とも共通している。

で、この事件。

最初に書いておこうっと。この米兵は無罪です。有罪が確定するまではね。原則、推定無罪。いちおう断っておかないと。花岡信昭@産経新聞が最初に被害者に同情的なことを書いているのと同じ、お約束です。

で、再び、この事件。

キー坊さんが書いているとおり、この事件が「外国から来た一般人」によるものだったら、こんな騒ぎにはならんのです。「世の中には悪い人もいるよ、だから知らない人について行っちゃダメだよ」が成立する。

でも、この場合は違う。米兵にはね、本当はほいほいついていっていいんですよ。悪い人なんていないんだから。だって彼らは「良き隣人」なんだから。これは私が言っているわけじゃない、米軍の然るべき偉い人が、そのように宣言しているんです。「良き隣人ですが、なかには野獣もいるので近づかないように」とは一言も言っていない。

容疑者の米兵が、なぜそこにいるのか。遊びに来たんじゃない。国と国との約束の結果として、そこにいるんです。言ってみりゃ、被害者の少女は、日本とアメリカに襲われたんだ。

産経新聞の花岡は次のように書いている(→記事URL)。

事件は事件、安保は安保、と冷静に切り離し、日米同盟の死活的な重要さに思いをはせてこそジャーナリズムだ。


ならば問いたい。「安保ゆえに沖縄に駐留している米兵が」「まさにその沖縄で」起こした事件を、なぜ安保と切り離せるのか? むしろ、「日米同盟の死活的な重要さ」こそ、この事件には何の関係もないではないか。

花岡ははっきりこう言うべきなのだ。「被害者の少女は死活的に重要な日米同盟のために身を捧げたのだ」と。なるほど、これなら彼の論には整合性が出てくる。

花岡の記事の末尾。

米軍基地が集結する沖縄である。夜の繁華街で米兵から声をかけられ、バイクに乗ってしまう無防備さ。この基本的な「しつけ」が徹底していなかったことは無念、という以外にない。


こういうことを言っても不思議のない人たちというのは、私には容易に思い浮かぶ。米軍基地を厭い、基地被害に涙し、基地撤廃のために運動し続け、それでもなお居座る米軍から身を守るために、子供にそのように言って聞かせなければならない人たちだ。しかしそれは決して、花岡のような「腐れ大和」(自虐も込めて、あえてこの言葉を使うのだが)の言うべきことではない。

2008年02月14日

知らない人に声をかけられても、ついていってはいけない

沖縄で、また米兵による事件が起きた。

沖縄署の調べによると女子生徒は、午後8時半ごろ沖縄市上地のミュージックタウン音市場前で、大型バイクの男に誘われて後部座席に乗り、その後、車に乗り換えたという。(琉球新報の記事より)


もうこれはね、絶対と言ってもいいくらい、「米軍許せん!」という論調に反発するように、「ついていく方が悪い」という論理が出てくると思う。去年10月の岩国での事件では藤田雄山・広島県知事が「朝の3時ごろまで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思うんでありますけれども」と言っているし、石原とか橋下とかも、いかにも言いそう(←憶測と偏見による決めつけです)。

……と、ここまで書いて放置しておいたら、「かめ!」の記事(→URL)で、さっそくその手の主張を展開する産経新聞(やっぱり?・笑)の記事が紹介されていた。

「知らない人についていってはダメ」。筆者などの世代は子どものころ、親から口うるさく言われたものだ。

米軍基地が集結する沖縄である。夜の繁華街で米兵から声をかけられ、バイクに乗ってしまう無防備さ。この基本的な「しつけ」が徹底していなかったことは無念、という以外にない。(客員編集委員 花岡信昭)


ええ、そのとおりでございます。「知らない人についていかない」を子供に徹底しておくべき、というのは(産経が言っているからというわけではないが)正論だと思う。いや、正論であるかどうかはともかく、少なくとも、私はそのように親から教育された。

ところで、この事件に関連して「dr.stoneflyの戯れ言」の記事「『少女は100%被害者である』…と、やはり断言したい」(→URL)においてdr.stonefly氏は、このように子供に教えなければならない社会を「哀しい」と表現している。

なぜ、人を疑う、ということが前提条件になっているのだ。または人を疑って当然という感性を疑わずに受け入れているのか?

こうした感覚のワタシは、根本的な「生き難さ」を当然のものとして受け入れてしまっているのではないか。当然として受け入れてしまっている感覚だから疑おうとしないのではないか。


こうした問いを発する気持ちは分かる。「生き難くない」「あるべき社会」をめざすという方向性で、その道程の途中までは、私もついていけるのではないかと思う。

けれども、その方向を突き詰めていったら、究極的には、どこか私としては受入れがたい、気持ちの悪い状況になるように思えてならない。

「知らない人についていってはいけないよ」と教えずに済む社会というのは、「人を疑う」必要のない社会、つまり、犯罪のない社会を意味するように思う。

うん、悪くない。悪くないんだけど……そこにたとえようのない気味悪さを感じてしまうのは私だけだろうか。それは、現実的/潜在的のいずれにせよ「犯罪者」が根絶された社会、なのではないだろうか。

いや、その「犯罪者の根絶」に、ファシズム的な超管理社会のようなものをイメージして、気味悪いと言っているわけではない。ま、そういう含みもないわけではないが、それだけではない。

「知らない人についていってはいけない」でもいい、あるいは「世の中いい人ばかりじゃないんだよ」でもいい、そういう教えの裏には、意識しているか否かはともかく、「自分も何かの拍子に犯罪者になるかもしれない」という恐怖が潜んでいるような気がする。人によってはそれを性悪説と呼ぶのかもしれないけれども、人間という存在に対する「分からなさ」、自分も含めて、いつダークサイドに滑り落ちるか分からない不安。

そういう不安があればこそ、律する意識、さらに言えば倫理的な意識が生まれてくるのではないか、と。

いやもちろん、繰り返すようだが、「生き難さ」を解消していく、人を疑わなくて済むような社会にしていくという道程の「途中までは」私もついていけるとは思うのだけど、それでも、「知らない人についていってはいけない」という言葉で表現されるような、「理解できないけれども邪悪なもの」(それは自分かもしれない)に対する恐怖感というものを持ち続けていたほうが、結果的に人間は倫理的な存在になりうるのではないか、という気がする。

ええ、なんだかおかしな方向に話が行ってしまった。

なにやら私が、花岡@産経の主張を支持しているように読めてしまうかもしれないが、それは断じて違う。

というのは、ここまではあくまでも一般論というか「前振り」にすぎないからだ。

いや、長すぎるね。

続きは別稿で。

2008年02月07日

すっげぇ火曜日

ビジョンを語らせると強いオバマが大統領になって、実務と経験に優るクリントンが副大統領になれば、最強のタッグになるんじゃないの、と私などは単純に考えてしまう(実際に両候補とも、互いを副大統領に指名する含みも残してはいるみたいだし)。

が、そんなことを考えていると、「なんでオレはアメリカにとって最良の政権なんかを考えているんだろう?」という疑問に襲われたりもする。

ブッシュ政権下で(ってチョムスキーあたりに言わせればそれ以前からずっと、だろうが)アメリカが世界でやってきたあんなことこんなことを考えれば、エマニュエル・トッドが言うように、アメリカが世界の問題を解決するのではなく、アメリカこそが世界の問題であって、世界の課題は、アメリカの必然的な没落にどう対処していくか、なのだろうという気がする。

だとすれば、私なんぞが「アメリカにとって最良の政権」を考えるというのは、いったいどういうことなのか。

ま、恐らく、アメリカの没落が必然だとしても、それがハードランディングになるのは世界にとってもアメリカにとっても不幸なことであって、「成熟した相対的な大国」へとソフトランディングしてくれることが誰にとっても幸福なことなのではないか。であるならば、それを実現してくれる政権があるとすれば、「オレの考えるアメリカにとって最良の政権」というのは、あまり矛盾がなく考えられるような気がする。

ところで、今朝(2月7日)の東京新聞に、民主党・共和党の予備選情勢が掲載されていて、誰が獲得したかによってアメリカの各州が色分けされている。

これを見ると、もちろん例外もあるのだけど、

クリントンが勝っている州では、マケインが勝っていて、
オバマが勝っている州では、ロムニー/ハッカビーが勝っている、

という大雑把な傾向があるような気がする。

2008年02月01日

餃子騒動

※この記事は某所と二重投稿になっておりますので、二回読んでしまいそうな人はここで読むのをやめてください(って、両方ともここでやめちゃダメだよ←別にいいけど)。

さて、餃子騒動です。たぶん新聞記事に餃子が登場する頻度は史上最高になっているのではないかと思います。この記事(→URL)なんかを読むと、どうも野菜の残留農薬とかそういうレベルの話ではないようで、この記事(→URL)あたりでは、なんだかとっても怪しい事態になっています。

で、思うことあれこれ。

●とりあえず死者が出てないのは幸い。


●それはどこの製品なのか。
あるブログに寄せられたコメントに、「回収された製品って、全部日本企業が中国の工場で作らせている『日本ブランド』の製品じゃないか。責任の所在はどこなのか」という趣旨のものがありました。

なるほど。

いや、その真偽は確かめてないけど、たとえば朝日新聞のこのリスト・写真(→URL)を見れば、これはどう見ても「日本メーカーの製品」なんだよね。iPodは米Appleの製品だけど、作っているのは中国。iPodが発火事故を起こしたら、責任取るのはAppleになりそう。

中国で作らせる最大の理由はコストダウンであって(※)、その分、品質管理の点で手抜きをした奴がいるってことだな。

※もっとも餃子の場合は「本場中国産」と謳えるというメリットもわずかながらあるかも。

って、だからといって別に「事件は中国企業のせいじゃない」と主張するほどオレは親中派ではないし、やっぱり安全基準とか日本ほど厳しくない可能性が大なので、やはりスーパーとかで格安の中国産野菜(ニンニクとか生姜とか)を見ると躊躇してしまうオレです。それに、上述のように、(それが誰であるにせよ)コスト削減のために品質管理の手を抜いた奴が介在してそうな商品はなるべくなら使いたくない、というのが本音のところ。

ま、昔はそれを「安かろう悪かろう」というきわめて的確な言葉で表現したのだろうけど。

●冷凍食品
しっかし皆、市販の冷凍食品よく食べてるんだなぁ。

別に手抜きが悪いとは言わない(あえて↑手抜きと呼びたい)。

だって、確かに仕事していて、しかも子供がいて、なんて状況だったら、毎度毎度の料理にそんなに手をかけていられないのは当然だもん。

でも、伝統的な食生活(というか家庭料理だな)の知恵って、「いかに手抜きをするか」が凄く大きな部分を占めているような気がする。しかも、昔と違って冷凍庫と電子レンジが使える今、そうした伝統的な手抜きの知恵はむちゃくちゃ応用範囲が広がっているはず。

事件そのものとは関係ないのだけど、そういう知恵が失われているんだろうなぁという気が強くしたのでした。

●「餃子」の「餃」は常用漢字ではないのか。
軒並み片仮名で「ギョーザ」という見出しが躍っているのを見ると、なんか違和感を感じるのでした。

●ギョーザ中毒
で、主要紙のなかでも「ギョーザ中毒」って言葉を使っているところが散見されるのだけどさ。

これってアレだな。ギョーザを3日間食べないと禁断症状を起こすとか。

オレがひたすら嫌う言葉に「沖縄病(患者)」というのがあるんですが、あえてそれを使うなら、オレはさしづめ「沖縄病・ギョーザ中毒」患者だろうと思う。行きたいな、黄金@那覇。

●冷凍庫に……
実は餃子が残っているんだけど、いつ食べようかな。いや、これは「手作り」だから大丈夫。あ、でも、そういえば回収された製品にも「手作り餃子」ってのがありましたね。

2008年01月23日

トランプに喩えれば

世界同時株安、ということらしい。

FRBが「思い切った」利下げをやったけど、その日の米国株はさらに下げたという。効果なしと足許を見透かされているんだろう。

専門家でもなければ株式投資をやっているわけでもないので、今後どうなるかという観測は慎むけど、そんなふうに足許を見透かされるってのも、まぁそういうこともあるんだろうな、とは思う。

結局のところ、昨今のサブプライムローン問題というのは、「商品になるはずがないもの」を取引しちゃっているように思うからだ。要するに、普通だったらお金を貸すべきでない(信用力の低い)相手に、何とか条件を取り繕ってお金を貸して、その証文を転売しようってんだから、基本的には無理がある。

でも、それが商品として成り立ってしまうのが金融の世界だ。

そのへんのことを、とっても上手く説明してくれているブログの記事がある(→URL

このような商品を扱う際、しばしば登場する冗談は「この商品が満期を迎える頃には自分はこの業界で働いている筈がない」といったトーンのものである。
これは半ば冗談とはいえ、多分に真実を含んでいる。


なるほどね。

要はババ抜きみたいなもんだな、と私は思った。「これを最後まで持っていたら負け」と分かってて、そのババ込みでカードをやり取りする(その過程でお金が動くわけだけど)。
平川克美さんもババ抜きの比喩を用いてらっしゃる(→URL)。

それが、破綻の先延ばしということで、最後にババを誰に引かせるかというのが、金融のプロの世界なのかもしれない。


いや、普通のババ抜きともちょっと違うな。何かの札が2枚揃っても、すぐに場には出さない。いずれもっと高く売れるかもしれないからね。

でもって、途中でなぜだかルールが変わった。というか、実は誰もルールをちゃんと理解していなかった。「これがババだから、これを何らかのタイミングで手放せば大丈夫」と皆が思ってた。ところが突然、「すみません、どれがババだか分からなくなりました」てな具合になる。これじゃ、どの札を持っていれば安心なのか分からない。誰も次の札をひく勇気が出ない。

これでは、多少市場に資金が流れたって、そう簡単には片付かないだろうよ。

2007年12月17日

統計学者が苦手なもの

庄内拓明さんの「知のヴァーリトゥード」(→URL)内の「今日の一撃」に、「統計と直観」という記事がある(→URL)。

そのネタ元になった記事が、「人は統計的な発想が苦手だ」(林康史氏、→URL )。

この元記事には、二つの問題が紹介されている。第一の問題については、私はそもそもの「青いタクシー」と「緑のタクシー」の比率を逆に取り違えていたので誤答した……そもそも統計的発想以前のレベルである(汗)(ま、考え方は間違っていなかったので正答はできたはず)

で、庄内さんのブログで話題になっているのが、もう一つの方の問題。短いので引用しておこう。

【問題】例えば、Aさんに子どもが2人いるとする。うち1人は女の子であることがわかっている。残りが男の子の可能性はどうだろうか。

むろん、面倒なので、男女が生まれる確率は1:1であると仮定する。

とっとと書いてしまうと、答えはもちろん1/2。

……ではなく、2/3であるらしい。

林氏の説明は、こうだ。

【解説】2名の兄弟姉妹として考えられるパターンは、「男・男」「男・女」「女・男」「女・女」の4つであり、それぞれの確率はいずれも「1/2×1/2=1/4」である。つまりそれぞれのパターンの比率は「1:1:1:1」。で、1人が女ということは「男・男」の組み合わせはありえないから、残るは3パターン。そのうち男が含まれるのは2パターンなので、答えは「2/3」。

これが統計的な発想であるらしい。

この「解説」は完全に正しい。つまり、確率が1/2であるような独立事象XとYが続けて2回生じる場合、一方がXであるとき、他方がYである確率はどうか、ということだ(たぶん)。

でも……。どうもおかしい。直観には反している。残りの1人は男か女かしかありえないし、一方が女だからといって、もう一方の確率が変化するわけではないから、確率は1/2に決まっているじゃないか。

なんでだろう。

直観的には、考えられるパターンは林氏の言う「3つ」ではなくて「4つ」なのだ。性別が分かっている子を、ここで「B」と呼んでおくと:

兄B
姉B
 B弟
 B妹

こうして見ると、林氏の【解説】について、あることに気づく。

男が含まれる組み合わせについては、件の「性別既知の子」が長子(姉)であるか次子(妹)であるか区別して2通りと数えているのに(「男・女」「女・男」)、「女・女」という組み合わせについては、長子(姉)であるか次子(妹)であるかを区別していないのである。

むろん、場合分けについても各々の確率についても、これはこれで問題はないのだけど、統計と直観のズレが生じる原因は、このあたりにあるのではないか。

同じ林氏の記事に、こんな説明もある。

任意の「兄弟姉妹」100組を集める(200名)。男女が生まれる比率が半々だとすると、男子100名、女子100名である。その組み合わせは「男・男」「男・女」「女・男」「女・女」の4パターンであり、その比率は1:1:1:1だから、それぞれ25組いることになる。

したがって、「少なくとも1人が女」である組は75組、そのうち「男が含まれる」組は50組、だから男が含まれる確率は3分の2である……というのが、林氏の結論だ。

では、ここで各パターンに含まれる女子の数を考えてみよう。当然ながら「0:25:25:50」である。

さて、この100名の女子から任意の1名を選び、「あなたには男のきょうだいがいますか?」と聞いた場合、答えが「はい」になる確率はどれくらいか? 言うまでもなく、「はい」と答える可能性があるのは50名しかいない。残りの50名は「いいえ、女のきょうだいがいます」と答える。

50/100。確率は1/2。

……あれ、なんだか直観にぴったり来る答えが得られたんですけど?

前提となる(想定上の)現実は、まったく同一である。なのに、なぜ違う結論が出るのか。

要は、【問題】に示された状況を、どのように解釈するかという違いだ。「1人が女の子である場合、このAさんの2人の子供が男女の組み合わせになる可能性はどれくらいか」と読めば、林氏の結論になるだろうし、「この女の子のきょうだいが男である可能性はどれくらいか」と読めば、上述の計算のように私の結論になる(たぶん)。多くの人は、そのように【問題】の状況を解釈したのだろう。

繰り返しになるが、林氏の【解説】はまったくもって正しい。それにもかかわらず、多くの人からの反発を浴びた。そして、反発した人は、その反発の真意をうまく説明できず、林氏に愚弄されてしまうのだ(林氏の態度は「愚弄している」という表現に相当すると思う)。

しかし、反発を招いた原因は林氏自身にある。組み合わせのパターンを数えれば、それだけで【問題】の解釈として事足りると考えて、その内実たる個々の要素を数えていない。「女・女」は25組しかないが、そこには「姉・妹」は50名いる。25組しかないのに、「女のきょうだいがいる」という回答は50件集まるのだ。

結局のところ、林氏はXとかYとか言っていれば良かったのかもしれない。もう一件の問題に関する「質問の仕方が悪い」というクレームに対して、林氏は「国語の読解力も不足している」と斬って捨てているが、果たしてそこに、自身の作文力に対する反省、あるいは「この問題文ならこの統計的解釈が唯一にして十分」という統計学を学んだ者ゆえの思い込みに対する反省はあるのか。

林氏の記事の表題は「人は統計的な発想が苦手だ」であったが、その理由は、「統計的な発想は不自然だから」なのかもしれない。あるいは……まぁいいや、これ以上は言わぬが花だろう。

いずれにせよ、最終的な結論としては、私と林氏はまったく合致している。

本当に、人は、ちゃんと学ぶことができないものだと思う。

2007年12月05日

ケータイ小説

以前から愛読している「大学教員の日常・非日常」に「読んだら負けのジレンマ」という記事があって、リンクされている「ケータイ小説を笑うまえに」も含めて、興味深く読んでしまった。
私はケータイ小説なるものを読んだことはありません。なので、別に笑うつもりも批判するつもりもありません。
でも……。
まぁ「大学教員の日常・非日常」の先生がおっしゃる
金を出してしまったら負け
とまでは思いませんけど……。
たぶん自分はしばらくはまったくこのメディアには手をつけないのではないかと思います。だって、それいつ読むんですか? 電車のなかですか? 電車のなかでは普通の書籍か雑誌か新聞読んでいます。ただでさえ、買ったのに読んでいない本が山積みになっていて、そのうえ図書館にも予約した本がばしばし入ってしまう昨今、新しいメディアに手を出す暇はありません。
もう少し、風雪に耐えたものが残ってからいいかな、と思います。もしケータイ小説なるものが私の想像しているより刹那的で、公開されてせめて数年以内に読まなければ古びてしまうようなものであれば、それはご縁がなかったということで。
「21世紀ケータイ小説傑作選」みたいなのが出たら、読んでもいいかも。

2007年10月31日

MTmailからの投稿テスト

MTmail経由で投稿してみる。

2007年09月18日

福田ってのは、そういえば

電車の中吊り広告で見ただけなんだが、週刊朝日が「安倍逃亡」という見出しを掲げていて、なるほど、まさに「逃亡」という言葉がぴったりの辞任だったな、と感心した次第。

しかし福田康夫ってのは、あれだな。私の記憶が正しければ、2004年3月19日あたりに、イラクの大量破壊兵器について「あると思う。ないはずはない」と根拠のない妄言を吐いた奴だな。

あぶないあぶない。

安倍の後だから、誰が出てきても少しはマシな奴であるような錯覚に陥ってしまう。

自民党は自民党。小泉も安倍も福田も麻生も自民党。たいした違いはあるまいよ。

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