2008年11月19日

国籍法改正について考えてみる

……というタイトルをつけてみたけど、むしろ「国籍法改正については考えていない」とする方がいいかもしれない(だって実際考えていないんだから)。

「お玉おばさんでも分かる政治のお話」というブログがこの問題に触れていたので(URL)、ちょっと興味を惹かれて、紹介されていた河野太郎のブログ「ごまめの歯ぎしり」の「炎上した」とされる記事(URL)を読んでみた(記事そのものの内容は同議員のメールマガジンで読んだものと同じだった)。

で。

以下は、まったくマジメでも誠実でもないおちゃらけた態度であるということは承知のうえで、ということはつまり、以下はこの問題に関する責任ある言説ではないと言われても返す言葉はないのだけど。

国籍法改正法案の文面も読まずに、さらには上述の記事本文も読まずに(読まなかったことにして)、「炎上した」コメント欄のみ、ざーっと目を通してみる。

そうすると、読んだこともない、その法案が素晴らしく良いものに思えてくるんだよね、うん。

というわけで、私は今般の国籍法改正に賛成です。内容は知らないけど。

……という効果を生み出すであろうということを、ああいうコメントを投稿した連中は想定しているのだろうか。いるわけないね。

2008年11月18日

浅学非才

各々に対してはいろいろ評価も分かれるのだろうけど、やはり小林秀雄も吉本隆明もまったく読んでいないというのはどうかと思う。あと、専門というか傾向を考えたら、西田幾多郎を読んでいないというのはさすがに不味いだろう。

いかんな〜。って、今から焦ってどうするという気もするのだけど。

2008年10月30日

内田樹の性格の悪さ

かねてから愛読している内田樹先生のブログ(内田樹の研究室)なのだけど、いやはやこの人も性格が悪い。

事の経緯はこうである。内田氏が「学校選択制」と題する記事にこんなことを書いた。

QWERT配列というのをご存じだろうか。 みなさんのコンピュータのキーボードの配列のことである。 この文字配列は「打ちやすい」ように並べられているわけではない。「打ちにくい」ように配列されているのである。 初期のタイプライターではタイピストが熟練してくるとキータッチが早くなりすぎて、アームが絡まってしまうということが頻発した。それを防ぐためにキータッチを遅らせるキー配列が工夫されたのである。

こんなのは「常識」であって、当該の記事を読むまでもなく、私としても「どこかで聞いた話」である。

……ところが、これは間違いであるらしい。数多の都市伝説同様、誤った俗説が流布しているということのようだ。

Y氏という専門家の方から指摘が入ったようで、そのメールが内田ブログの翌日の記事に紹介されている。Y氏はご自分の日記にも、内田氏の誤りを指摘する記事を書いているようだが、そのへんについては内田ブログからのリンクで参照いただきたい。

さて、どちらが正しいか。専門家ではない私にはよく分からないけど、どうもY氏の方が正しそうである。そのへんは同氏の著書を読めば詳細に論じられているのだろう。内田氏も「私がどこかで読み囓った情報が間違っていたようであるので、ここで謹んで訂正させていただく」と書いているように、ご自分の誤りを認めているようだ。

しかし、(Y氏の日記も含めて)このやりとりにおいて「恥をかいている」のはどちらかといえば、残念ながらY氏の方であるとしか思えない。

むろん、恥をかく原因はY氏自身の文章にあるのだから自業自得なのだけど、もらったメールをそのまま紹介して、Y氏の恥をさらすというのは、いやはや、どうにも性格が悪いね、ウチダ先生は……。

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2008年10月27日

日教組批判について思うこと

日教組批判の放言を重ねて辞任した中山前国交相はその後も奇行を繰り返しているので、彼の発言も「そのような人が為した発言」として了解されてよいのではないかと思う。

橋下府知事や自民党の重鎮の一部にも日教組批判を支持する発言があるみたいだが、これについて私が言いたいのは一つだけである。

この国に起きている諸般の現象を「これは日教組によるもの」「これは文部省によるもの」と恣意的に切り分けることは許されまい、ということだ。

戦後日本の学校教育(初等・中等教育)をきわめておおざっぱに捉えるならば、それは文部省(文科省)的なるもの(=与党・政府・官僚系=学習指導要領などなど)と日教組的なるもののせめぎ合いのなかで進められてきたといっても、それほど大きく間違ってはいないだろう。そのうち、どちらが優位な影響を子ども(もちろん現時点での大人を含む)に及ぼしていたかは、私には分からない。文部省的なるものが優位を占めていた局面(地域・時期)もあろうし、日教組的なるものが優位を占めていた局面もあるだろう。

双方の影響が入り交じっている以上、そのなかで育てられた「日本国民」が生み出してきた/生み出している現象を、どちらの影響によるものかを単純に切り分けることはできない。

仮に、日教組の影響が常に優位にあったとすれば、親殺し・子殺しは日教組のせいと言えるかもしれないが、同時に、自民党が長期にわたって政権を維持し、中山や橋下が大臣や知事の座につくことにできたのも日教組のおかげである。

もちろん上の一文の日教組を「文部省」に入れ替えてもいい。

いずれかの影響が常に絶対的に優位になかったとするなら、各々の現象をいずれか一方の影響に帰するには恣意的な操作が必要だ。中山や橋下が、「自分たちが当選できたのは日教組の影響をあまり受けなかった良識ある有権者のおかげであり、日本の社会にさまざまな問題が生じているのは、日教組の影響を受けた質の悪い国民がいるからだ」と発言するならば、その発言そのものが日教組による間違った教育の所産である。あるいは文部省による教育の所産である。どちらでもいいが。

個人的には、中山や橋下の発言を見る限り、彼らが大臣や知事といった職を得ることができたのは、日教組が道徳教育を一生懸命妨害したからだと思えてならない。これもまた一つの恣意的な解釈だろうけど。

ところで、私が今書きたいのは、以上のような常識的なことではなく、日教組系の教員についての個人的な思い出である。

私が小学5・6年のときの担任は、確かに日教組の熱心な組合員であったように思う。選挙になると私の親のところにも日本共産党の候補者への投票を依頼する電話があったくらいだから、けっこう真面目な活動家だったのだろう(ただしそのような電話をしてくるようになったのは私の卒業後ではあったし、すべての生徒の家に電話していたかどうかは分からないが)。

その担任の学級運営で今でも覚えているのは、「班長のリコール制」である。

クラスは、6名ほどを単位とする「班」に分かれていた(「細胞」とは呼ばれていなかった)。最初に「班長」をどのように決めていたかは覚えていないのだが、現職の班長(他班の班長も含む)を学級会の場で「リコール」することができたのだ。

もちろん趣旨としては、現実の自治体首長などに関して設けられている解職請求権のシミュレーションだったのだろう。

でも、僕らは子どもである(笑) このようなシステムが理性的に運営されるはずもない。遊びや学校生活の場における個人的な私怨に基づく「リコール」は珍しくなかった。リコールされた側(前班長)は、涙を浮かべ、逆ギレして(当時はそんな言葉はなかったが)他の班長に対するリコール動議を連発し、学級会の場は泥仕合と化す(笑) 後の私であれば「総括」などという言葉も思い浮かべたかもしれない。

担任は、自分が教えた「民主的制度」が意図したように機能しないのを目の当たりにして困惑していたと思う。

けれども、あの場面は「民主的な制度も暴走することがある」ということをリアルに教えてくれた。それは(残念ながら)担任の意図とは異なっていたかもしれないけれど、それはそれで、有益な教育だったように思う。

小学校を卒業して8年ほど経ってから、この(かつての)担任からの電話を受けたことがある。もちろん私はすでに選挙権を得ていたし、国政レベルの選挙が近づいていた時期だったと思う。用件は明らかだったのだが、それなりに政治意識(笑)の高まっていた私の方から誘って、近所の焼鳥屋で2人で飲むことになった。担任曰く、「僕も学生のときは民青が大嫌いだったなぁ」と。なかなか面白い一席になり、また飲もうという話になったのだけど、残念ながらその機会は訪れていない。

懐かしいなぁ、N先生。

2008年09月24日

なぜ誰も突っ込まない?

と、唐突に復活させてみる。

いや、麻生新総裁誕生を伝える東京新聞の記事(記事URL(消えるかもしれないけど))に、次のような一節があって……。
麻生氏は当選後のあいさつで「総選挙で民主党と断固戦わなければならない。選挙に勝って初めて天命を果たしたことになる」と述べ、衆院選勝利に強い決意を表明した。

ずいぶん軽い「天命」ではないか。思わず本音が出たというか、自分たちが権力を保持することが「天命」なのだなぁ、彼にとっては。

2008年04月24日

ある死刑判決

やたらに有名になってしまった、ある殺人事件の判決が出た。

私はほとんどテレビを観ない人間なので、ワイドショー的な視点にはほぼまったく影響されていない、と思う。週刊誌も読まないしね。遺族の主張とか、弁護団がどんな人たちかとか、そんなことがテレビ・週刊誌では取り沙汰されているらしいが、そういうのはよく知らない。

そのうえで。

今回の判決要旨を読んだけど、まぁ首を傾げたくなる点はあれこれあるにせよ、ともかく私の感想は一つ、「人を殺しちゃいかんのではないか」ということだ。

あ、言うまでもないけど、主語は「国家が」です。

2008年02月22日

良き隣人(ただし野獣もおります)

前稿「知らない人に……」の末尾で「続きは別稿で」と書いたまま、他のことにかまけて放置しておいたら、催促のように(笑)、キー坊さんからコメントをいただいてしまった。

でもね、この事件を起こしたのは、外国から来た一般人ではないということです。戦後ずっと沖縄に居座り、沖縄人を殺し、強姦してきた米軍の兵隊が起こした凶
悪事件だということですね。

この被害者少女のしつけが悪いということは、沖縄人自身の内部問題であって、米兵糾弾の問題とは別の次元のことです。


私が書きたかったことは、キー坊さんのこのコメントですべて言い尽くされている。

おしまい。

……ではあまりに芸がない。

ついでにといっちゃ何だが、もう一つ紹介しておこう。「モジモジ君の日記。みたいな。」というブログの「米兵の事件だから大きく報道するに決まってるだろ、このバカ」という記事(→URLで、mojimojiさんが次のように書いておられる。

被害少女の「落ち度」なるものを語る言説は、留保抜きに、一つ残らずアホ。(中略)善悪の話と、処世術における巧拙の話を、ごっちゃにするな。バカどもが。


善悪の話と、処世術における巧拙の話を、ごっちゃにするな。

かっこよすぎます。啖呵というのはこうやって切るものだな。

もちろん前稿での私の立場は、言ってみれば「一見、処世術のように見えても、その教えの根底には倫理がある」とでもまとめられるのだけど、それは一般論を突き詰めたうえでの話である。現実問題としては、「善悪の話と、処世術における巧拙の話を、ごっちゃにするな。」でいいのだ。キー坊さんのコメントの最後の部分とも共通している。

で、この事件。

最初に書いておこうっと。この米兵は無罪です。有罪が確定するまではね。原則、推定無罪。いちおう断っておかないと。花岡信昭@産経新聞が最初に被害者に同情的なことを書いているのと同じ、お約束です。

で、再び、この事件。

キー坊さんが書いているとおり、この事件が「外国から来た一般人」によるものだったら、こんな騒ぎにはならんのです。「世の中には悪い人もいるよ、だから知らない人について行っちゃダメだよ」が成立する。

でも、この場合は違う。米兵にはね、本当はほいほいついていっていいんですよ。悪い人なんていないんだから。だって彼らは「良き隣人」なんだから。これは私が言っているわけじゃない、米軍の然るべき偉い人が、そのように宣言しているんです。「良き隣人ですが、なかには野獣もいるので近づかないように」とは一言も言っていない。

容疑者の米兵が、なぜそこにいるのか。遊びに来たんじゃない。国と国との約束の結果として、そこにいるんです。言ってみりゃ、被害者の少女は、日本とアメリカに襲われたんだ。

産経新聞の花岡は次のように書いている(→記事URL)。

事件は事件、安保は安保、と冷静に切り離し、日米同盟の死活的な重要さに思いをはせてこそジャーナリズムだ。


ならば問いたい。「安保ゆえに沖縄に駐留している米兵が」「まさにその沖縄で」起こした事件を、なぜ安保と切り離せるのか? むしろ、「日米同盟の死活的な重要さ」こそ、この事件には何の関係もないではないか。

花岡ははっきりこう言うべきなのだ。「被害者の少女は死活的に重要な日米同盟のために身を捧げたのだ」と。なるほど、これなら彼の論には整合性が出てくる。

花岡の記事の末尾。

米軍基地が集結する沖縄である。夜の繁華街で米兵から声をかけられ、バイクに乗ってしまう無防備さ。この基本的な「しつけ」が徹底していなかったことは無念、という以外にない。


こういうことを言っても不思議のない人たちというのは、私には容易に思い浮かぶ。米軍基地を厭い、基地被害に涙し、基地撤廃のために運動し続け、それでもなお居座る米軍から身を守るために、子供にそのように言って聞かせなければならない人たちだ。しかしそれは決して、花岡のような「腐れ大和」(自虐も込めて、あえてこの言葉を使うのだが)の言うべきことではない。

2008年02月14日

知らない人に声をかけられても、ついていってはいけない

沖縄で、また米兵による事件が起きた。

沖縄署の調べによると女子生徒は、午後8時半ごろ沖縄市上地のミュージックタウン音市場前で、大型バイクの男に誘われて後部座席に乗り、その後、車に乗り換えたという。(琉球新報の記事より)


もうこれはね、絶対と言ってもいいくらい、「米軍許せん!」という論調に反発するように、「ついていく方が悪い」という論理が出てくると思う。去年10月の岩国での事件では藤田雄山・広島県知事が「朝の3時ごろまで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思うんでありますけれども」と言っているし、石原とか橋下とかも、いかにも言いそう(←憶測と偏見による決めつけです)。

……と、ここまで書いて放置しておいたら、「かめ!」の記事(→URL)で、さっそくその手の主張を展開する産経新聞(やっぱり?・笑)の記事が紹介されていた。

「知らない人についていってはダメ」。筆者などの世代は子どものころ、親から口うるさく言われたものだ。

米軍基地が集結する沖縄である。夜の繁華街で米兵から声をかけられ、バイクに乗ってしまう無防備さ。この基本的な「しつけ」が徹底していなかったことは無念、という以外にない。(客員編集委員 花岡信昭)


ええ、そのとおりでございます。「知らない人についていかない」を子供に徹底しておくべき、というのは(産経が言っているからというわけではないが)正論だと思う。いや、正論であるかどうかはともかく、少なくとも、私はそのように親から教育された。

ところで、この事件に関連して「dr.stoneflyの戯れ言」の記事「『少女は100%被害者である』…と、やはり断言したい」(→URL)においてdr.stonefly氏は、このように子供に教えなければならない社会を「哀しい」と表現している。

なぜ、人を疑う、ということが前提条件になっているのだ。または人を疑って当然という感性を疑わずに受け入れているのか?

こうした感覚のワタシは、根本的な「生き難さ」を当然のものとして受け入れてしまっているのではないか。当然として受け入れてしまっている感覚だから疑おうとしないのではないか。


こうした問いを発する気持ちは分かる。「生き難くない」「あるべき社会」をめざすという方向性で、その道程の途中までは、私もついていけるのではないかと思う。

けれども、その方向を突き詰めていったら、究極的には、どこか私としては受入れがたい、気持ちの悪い状況になるように思えてならない。

「知らない人についていってはいけないよ」と教えずに済む社会というのは、「人を疑う」必要のない社会、つまり、犯罪のない社会を意味するように思う。

うん、悪くない。悪くないんだけど……そこにたとえようのない気味悪さを感じてしまうのは私だけだろうか。それは、現実的/潜在的のいずれにせよ「犯罪者」が根絶された社会、なのではないだろうか。

いや、その「犯罪者の根絶」に、ファシズム的な超管理社会のようなものをイメージして、気味悪いと言っているわけではない。ま、そういう含みもないわけではないが、それだけではない。

「知らない人についていってはいけない」でもいい、あるいは「世の中いい人ばかりじゃないんだよ」でもいい、そういう教えの裏には、意識しているか否かはともかく、「自分も何かの拍子に犯罪者になるかもしれない」という恐怖が潜んでいるような気がする。人によってはそれを性悪説と呼ぶのかもしれないけれども、人間という存在に対する「分からなさ」、自分も含めて、いつダークサイドに滑り落ちるか分からない不安。

そういう不安があればこそ、律する意識、さらに言えば倫理的な意識が生まれてくるのではないか、と。

いやもちろん、繰り返すようだが、「生き難さ」を解消していく、人を疑わなくて済むような社会にしていくという道程の「途中までは」私もついていけるとは思うのだけど、それでも、「知らない人についていってはいけない」という言葉で表現されるような、「理解できないけれども邪悪なもの」(それは自分かもしれない)に対する恐怖感というものを持ち続けていたほうが、結果的に人間は倫理的な存在になりうるのではないか、という気がする。

ええ、なんだかおかしな方向に話が行ってしまった。

なにやら私が、花岡@産経の主張を支持しているように読めてしまうかもしれないが、それは断じて違う。

というのは、ここまではあくまでも一般論というか「前振り」にすぎないからだ。

いや、長すぎるね。

続きは別稿で。

2008年02月07日

すっげぇ火曜日

ビジョンを語らせると強いオバマが大統領になって、実務と経験に優るクリントンが副大統領になれば、最強のタッグになるんじゃないの、と私などは単純に考えてしまう(実際に両候補とも、互いを副大統領に指名する含みも残してはいるみたいだし)。

が、そんなことを考えていると、「なんでオレはアメリカにとって最良の政権なんかを考えているんだろう?」という疑問に襲われたりもする。

ブッシュ政権下で(ってチョムスキーあたりに言わせればそれ以前からずっと、だろうが)アメリカが世界でやってきたあんなことこんなことを考えれば、エマニュエル・トッドが言うように、アメリカが世界の問題を解決するのではなく、アメリカこそが世界の問題であって、世界の課題は、アメリカの必然的な没落にどう対処していくか、なのだろうという気がする。

だとすれば、私なんぞが「アメリカにとって最良の政権」を考えるというのは、いったいどういうことなのか。

ま、恐らく、アメリカの没落が必然だとしても、それがハードランディングになるのは世界にとってもアメリカにとっても不幸なことであって、「成熟した相対的な大国」へとソフトランディングしてくれることが誰にとっても幸福なことなのではないか。であるならば、それを実現してくれる政権があるとすれば、「オレの考えるアメリカにとって最良の政権」というのは、あまり矛盾がなく考えられるような気がする。

ところで、今朝(2月7日)の東京新聞に、民主党・共和党の予備選情勢が掲載されていて、誰が獲得したかによってアメリカの各州が色分けされている。

これを見ると、もちろん例外もあるのだけど、

クリントンが勝っている州では、マケインが勝っていて、
オバマが勝っている州では、ロムニー/ハッカビーが勝っている、

という大雑把な傾向があるような気がする。

2008年02月01日

餃子騒動

※この記事は某所と二重投稿になっておりますので、二回読んでしまいそうな人はここで読むのをやめてください(って、両方ともここでやめちゃダメだよ←別にいいけど)。

さて、餃子騒動です。たぶん新聞記事に餃子が登場する頻度は史上最高になっているのではないかと思います。この記事(→URL)なんかを読むと、どうも野菜の残留農薬とかそういうレベルの話ではないようで、この記事(→URL)あたりでは、なんだかとっても怪しい事態になっています。

で、思うことあれこれ。

●とりあえず死者が出てないのは幸い。


●それはどこの製品なのか。
あるブログに寄せられたコメントに、「回収された製品って、全部日本企業が中国の工場で作らせている『日本ブランド』の製品じゃないか。責任の所在はどこなのか」という趣旨のものがありました。

なるほど。

いや、その真偽は確かめてないけど、たとえば朝日新聞のこのリスト・写真(→URL)を見れば、これはどう見ても「日本メーカーの製品」なんだよね。iPodは米Appleの製品だけど、作っているのは中国。iPodが発火事故を起こしたら、責任取るのはAppleになりそう。

中国で作らせる最大の理由はコストダウンであって(※)、その分、品質管理の点で手抜きをした奴がいるってことだな。

※もっとも餃子の場合は「本場中国産」と謳えるというメリットもわずかながらあるかも。

って、だからといって別に「事件は中国企業のせいじゃない」と主張するほどオレは親中派ではないし、やっぱり安全基準とか日本ほど厳しくない可能性が大なので、やはりスーパーとかで格安の中国産野菜(ニンニクとか生姜とか)を見ると躊躇してしまうオレです。それに、上述のように、(それが誰であるにせよ)コスト削減のために品質管理の手を抜いた奴が介在してそうな商品はなるべくなら使いたくない、というのが本音のところ。

ま、昔はそれを「安かろう悪かろう」というきわめて的確な言葉で表現したのだろうけど。

●冷凍食品
しっかし皆、市販の冷凍食品よく食べてるんだなぁ。

別に手抜きが悪いとは言わない(あえて↑手抜きと呼びたい)。

だって、確かに仕事していて、しかも子供がいて、なんて状況だったら、毎度毎度の料理にそんなに手をかけていられないのは当然だもん。

でも、伝統的な食生活(というか家庭料理だな)の知恵って、「いかに手抜きをするか」が凄く大きな部分を占めているような気がする。しかも、昔と違って冷凍庫と電子レンジが使える今、そうした伝統的な手抜きの知恵はむちゃくちゃ応用範囲が広がっているはず。

事件そのものとは関係ないのだけど、そういう知恵が失われているんだろうなぁという気が強くしたのでした。

●「餃子」の「餃」は常用漢字ではないのか。
軒並み片仮名で「ギョーザ」という見出しが躍っているのを見ると、なんか違和感を感じるのでした。

●ギョーザ中毒
で、主要紙のなかでも「ギョーザ中毒」って言葉を使っているところが散見されるのだけどさ。

これってアレだな。ギョーザを3日間食べないと禁断症状を起こすとか。

オレがひたすら嫌う言葉に「沖縄病(患者)」というのがあるんですが、あえてそれを使うなら、オレはさしづめ「沖縄病・ギョーザ中毒」患者だろうと思う。行きたいな、黄金@那覇。

●冷凍庫に……
実は餃子が残っているんだけど、いつ食べようかな。いや、これは「手作り」だから大丈夫。あ、でも、そういえば回収された製品にも「手作り餃子」ってのがありましたね。

2008年11月

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